Magical Mystery Nara Tour

独自の視点で奈良の魅力&情報を発信していきます。

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◆第1章 6話 ”帰郷”


 翌日、早朝から雨が降った。
 国栖を発った時にはまだ小雨だったが、峠を越えたあたりから横殴りの雨になった。
 軽島豊明宮に到着した時には体はずぶ濡れで、大長守は「凄い雨であったのう」と全身から水滴をしたたらせながら言った。大鷦鷯は無言でうなずく。可哀相だったのは稚郎子で、唇を紫にし、顔は青ざめ震えていた。
 宮殿に入ると、帰りを待っていた女孺が出迎えて、衣を着替えさせてくれた。稚郎子はそれでも震えが止まらないらしく、そのまま寝込んでしまった。
 大鷦鷯は初め、口は達者なくせに体はまだまだ未熟なんだなとほくそ笑んでいたが、さすがに心配になってきた。声をかけると稚郎子は呻くように返事をした。しばらく何度かそんなことを繰り返しているうちに、すやすやと寝息が聞こえてきた。
 大鷦鷯も横になった。雨音はまだ止まない。ザーッと地面に叩きつける音が耳に張り付くかのように続いている。この雨は一晩中降るのだろうか…。田や川は大丈夫であろうか…。ふいにサトの顔が思い浮かんだ。大和川が濁流となれば河内に流れ込む…。
 …大丈夫だ。雨はもう止む。帰ったらサトに会いに行こう。大鷦鷯はそう何度も心の中でつぶやいた。そう、大丈夫だと。吉野のカミへの祈りは無事済んだのだから、もう大丈夫だと…。
 大鷦鷯は夢を見た。夢の中でも歩いていた。自分が行軍の先頭を歩いている。ザクザクと足音と甲冑の擦れる音がうしろからついてきていたが、次第に兵が自分を追い抜いて行った。早く歩こうとしたが、足になにかがまとわりつくようで思うように歩けない。大長守と稚郎子も通り過ぎていった。大鷦鷯は必死で二人のうしろ姿を追ったが、二人の姿が坂の先に見えなくなろうとしていた。二人の名を呼んだ。ここで呼び止めないと、もう二度と二人には会えないような気がしたからだ。二人がこちらを振り向いた。

「大鷦鷯どうした?」

 大長守がこちらにやってきて首をかしげた。稚郎子は不思議そうにこちらを見ている。二人を呼びとめてしまったせいで、三人とも行軍に遅れてしまった。しかし、それでよかったのだ。この先に行ってはいけない。大鷦鷯はそう強く確信していた。目から涙がポロポロと流れると、それを見て大長守と稚郎子が笑った。
 すると突然場面が切り替わった。大鷦鷯は森の中に立っていた。大長守と稚郎子の姿はない。二人の姿を探して森の中をゆっくりと進んだ。しかし、いくら進んでも同じ景色が繰り返されるだけで、迷ったと思った時には遅かった。もはや引き返すにもどの方向に向かえばよいのかわからない。大鷦鷯は諦めて地面に座り込んだ。すると尻のあたりがむずむずとし、地面にめり込んでいくような気がした。いや、気がしたのではない。実際にめり込んでいっていたのだ。いくらもがいても体は土の中に入っていった。体の半分が地面に沈み、ついには顔にも土がかぶった。その時だった。誰かが笑うような声が聞こえた。大長守と稚郎子であろうか。いや、違う。もっと不気味な笑い声だった。モノノケの声であろうか…。それともカミの声か…。笑い声がだんだん近づいてきた。ついに耳元までやってきた。大鷦鷯は「わーっ!」と叫び恐怖で体をよじらせた。

「御子さま、大丈夫ですか?」

 目をあけると女孺の顔があった。しばらく状況が飲み込めずにいたが、自分は夢を見ていたのかと思い至る。体を起こし横を見ると、稚郎子が寝ていた。よかったと安堵する。

「われはそんなにうなされていたか?」

「はい」

 女孺がうなずいた。
 大鷦鷯は今しがた見ていた夢を思い返す。夢でよかったというべきだが、人が寝ている間に見るものは、現実に起こることを予知していると聞いたことがある。あの行軍はきっと吉野へ向かっていたに違いない。だとすれば、吉野へ行くべきではなかったということであろうか…。しかし、もう帰ってきたあとだ。今更もうどうすることもできない。仮に出発する前に今の夢を見たとしてもわれにはどうすることもできなかったであろう…。なにより無事に帰ってきたではないか。ただの夢に過ぎない。

「もう一度眠りますか?」

 女孺が優しい声で言った。大鷦鷯はうなずき横になった。
 今気付いたが、雨の音は消えていた。




 次に目覚めたとき、もう稚郎子の姿はなかった。
 大鷦鷯が眠り過ぎたかと思ったがそうでもないらしい。女孺に訊くと稚郎子らは夜明けと共に発ったと答えた。昨日は体は未熟だなと心配したが、心配して損をした。むしろ、われの方が変な夢は見るし、どうかしている。体だけは丈夫だと自負していたのに…。
 …やはりあれだな。稚郎子のせいで調子を狂わされたのだ。母上が違ってよかった。もしあれと一緒に住んでいたら、われはそのうち病になり倒れていたであろう。
 表に出ると、信じられないくらいの快晴であった。
 思いっきり伸びをして体を張ると、思わず「ぶっ」と屁が出た。
 うしろについていた女孺が一歩引き下がる。

「すまんな」

 すると、さらに「ぷっ」と出た。
 女孺はさらに一歩引き下がった。

「………」

 身支度を整えると軽島豊明宮を発った。
 来た時と同じく舎人が先導し女孺が付いて歩いた。
 同じ当麻道を歩いて帰ったが、はじめ道を間違えたのではないかと思うほど、道中の景色は様変わりしていた。ところどころ田の稲は倒され、水路は溢れんばかりに濁った水が流れている。

「片足羽は大丈夫やろうか?」

 大鷦鷯が半ば独り言のようにそう言うと、舎人と女孺は首をかしげた。
 片足羽は大和川と石川が合流する場所である。大和で雨が降れば必ず影響はある。川幅は広いので、そう簡単には氾濫はしないであろうが、昨日のあの雨だ。大和でこれだけ影響があるところを見ると…。

「心配や。はよう帰ろう」

 舎人と女孺うなずき、歩を速めた。
 二上山と葛城山の間を登り、峠を越え河内側に下った。女孺がはぁはぁと肩で息をしていたので休憩を取らせた。すぐに「もう大丈夫です」と女孺が立ち上がる。

「ほんまか?」

 女孺は強くうなずいた。

「では行こう。あと少しや」

 一行は先を急いだ。
 ようやく片足羽の一帯を見渡せる場所に着いたその時だった。先に全身が泥だらけの集団が座り込んでいるのが見えた。集団は大鷦鷯たち一行の姿を見つけると、憔悴させつつも頭をさげた。見たことのある顔だった。片足羽の民に違いない。近づいて声をかけた。

「どうしたんや?」

 民は困惑の表情を見せつつも答えた。

「実は、昨夜に突然大和川と石川が氾濫して…。暗闇の中で何が起こったのかわからず、とにかくわしらはここまで逃げてやってきたんです」

「なにっ…」

 大鷦鷯は絶句した。悪い予感はしていたが、まさか民たちが泥だらけでこんなところまで逃げてきているとまでは考えていなかった。舎人と女孺も顔をこわばらせている。

「他のものたちはどうしたんや?」

 大鷦鷯が訊くと、民たちは顔を横に振った。

「なにせもの凄い音がして…。きっとあれは邑が濁流に飲み込まれた音。まだ足が震えてここから動けんのです…」

 次の瞬間には大鷦鷯は駈け出していた。

「御子さま!」

 舎人と女孺の呼ぶ声が聞こえたが構わず走った。




 まず誉田宮に立ち寄った。高台にある宮は無傷のようだった。
 誉田真若が表に出ており、大鷦鷯の姿を見ると驚いた顔をして言った。

「大鷦鷯よ。無事であったのか!今使いを出そうと思っていたとこじゃった。舎人と女孺はどうした?」

 大鷦鷯は肩で息をし、誉田真若と目を合わせると、なにも言わずまた駈けだした。

「大鷦鷯!待つんじゃ!」

 叫ぶ声がうしろから聞こえたが、構わず走った。
 徐々に邑の方に近付くと、ごうごうとにぶい音が聞こえてきた。さっきから風の音かと思っていたが、それは川の濁流の音であると気付いた。
 土手のいたるとこに泥だらけの民が途方に暮れた様子で座りこんでいるのが見えた。大鷦鷯はその間を通りぬけた。民が力なくこちらを見上げたのがわかった。
 土手の上に立って眺めた。目前に広がっていた光景は、変わり果てた姿という生半可なものではなかった。邑があったあたりがまるごと濁流に飲まれ消えていた。近くにいた民に訊くと、これでも水は引いた方だと答えた。
 大鷦鷯は土手を歩き、民の姿を見つけてはサトの姿を探した。しかし、どれだけ探してもサトに会うことはできなかった。対岸に渡ろうと、川に下ろうとすると民に止められた。

「御子さま!危ないです!川に入ってはなりません!」

 民が数人で大鷦鷯を体をつかみ抑えた。民の必死の剣幕に諦めるしかなかった。

「…対岸の方に逃げているものはいるのか?」

 大鷦鷯が力なく言うと、民はつかんでいた手の力を弱めて答えた。

「えぇ、いると思います。きっとおります…」

「……」

 大鷦鷯もそう信じたかった。しかし、この光景を目にしては、絶望的なことしか思い浮かべられなかった。夢であってほしい。これこそ悪夢であってほしい。ならば、はやく目覚めなくては。どうして、いつまでたっても目覚めない。どうしてだ!
 だが、わかっていた。これが夢でないということは。目、耳、肌で感じるすべてが、これが現実のことであることを知らしめていた。大鷦鷯は自らの無力さを痛感し、立ち尽くすしかなかった。




 数日たって水が引き、大和川と石川も以前のような穏やかな流れに戻ってきた。
 被害の状況も誉田宮に伝えられてきて、邑の住居や倉のほとんどが流されてしまっていたことがわかった。田畑の被害も甚大で、高台にあったわずかなだけが残っているだけであるという。
 誉田真若は宮の倉を開け、民にわけあたえた。民からすれば満足できるほどではなかったであろうが、下流はさらに酷い被害も出ていると聞いていたので、誰しもこの状況を飲むしかなかった。
 しかし、民を本心から失意のどん底に落としたのは、このような状況であったのにも関わらず兵の招集があったことであった。民たちもさすがにと訴えるために誉田宮に押しかけた。誉田真若が直接出て対応したが、いくら誉田真若といえど大和の決定に逆らうことはできない。倭国の存続にかかわることであるからと説得するしかなかった。
 数日後には、兵として発つ邑の男たちが誉田真若の前に整列していた。大鷦鷯も立ち会った。ふとその中に見たことある顔があるのに気付いた。すぐに思い出した。あのいつの日か、ハマベを岩場で痛めつけていた背の高い男子であった。大鷦鷯が凝視しても、決して男子はこちらを見ることはなかった。覚悟を決めた者の顔であった。今となれば大鷦鷯の方が詫びなければならない気になった。無事を祈るしかない。誰しもだ。ここにいる誰もが無事で帰ってほしかった。
 大鷦鷯は連日、“かつて邑のあった”場所を歩き、または下流の方まで足を延ばしサトの姿を探した。しかし、いくら歩こうともサトに会えることはなかった。
 ハマベには会うことができた。泥だらけになって田畑に流れ込んだ土砂を邑の男たちと掻きだしているところを偶然見つけ、近づいて声をかけたのだ。
 サトの居場所を問うたが、ハマベはただ首を振るだけであった。ハマベは泣いた。大鷦鷯もつられてその場で鳴き崩れそうになったが、必死に耐えた。絶対に人の前では泣けぬ。ましては民の前で。

「大丈夫や。われがサトを見つけ出す」

 震える声でそう言うのが精一杯であった。
 ハマベが手振りでなにか伝えようとした。

「む?なんだ?…なるほど、おぬしもサトを見つけるのを手伝うと言うのか?」

 ハマベがうなずいた。

「それは心強いな」

 大鷦鷯が少し微笑むと、ハマベも少し微笑んだかのように見えた。
 川に沿って毎日のように歩いていると、大和川が氾濫を起こす原因がよくわかった。
 大きく蛇行する箇所は、自然と土砂が溜まった堤防になっているが、その前後は脆く、許容を超えてしまうとそこから一気に水が漏れだしてしまうのだ。
 それを防ぐためには堤防を人の手で拡大させるしかないが、そもそもが大和川の今の形になったのも、はるか昔から氾濫を繰り返し形成されてきたものである。安易に人の手を加えれば、より被害が大きくなる可能性もあった。氾濫が土砂を運び、平地を築いてきた。長い目で見れば氾濫は農地を増やしてきた存在でもあるのだ。
 しかし、これほどまでの規模の氾濫は、河内に古くから住む民も、未だかつて見たことないと口々に言った。中には、河内に多くの民が住むようになり、近くの森林を伐採したことでカミを怒らせたのだと叫ぶものもいた。
 …われには本当のことはわからない。ただはっきりとわかったのは、もう二度とこんな悲劇は起きるべきではないということであった。荒ぶるものを抑え、日々の営みが豊かになるように、知恵を絞り技術を会得してきたのもわれらの歴史である。河内も大和のように民が増えたのあれば、大和のように大溝を築き、水路を張り巡らし水を掌握する必要があるであろう。
 しかし…と、大鷦鷯は遥か西の先の海岸線を望んでは首を振った。
 この広大な河内の平野だ。氾濫を抑えるための大溝を築こうとすれば、大和川と石川が合流する地点から感玖(こむく)の平野を抜け、百舌鳥野の海岸線へ向けて大溝を築かなければならない。纏向の大溝とは比較にならないほどの規模だ。一体どれほどの労力を必要とするのか想像もつかない。河内の民を総動員しても足りないであろう…。
 悔しい。歯痒い。大鷦鷯はくちびるを噛みしめた。
 われの頭の中では、いくらでも思い描くことが出来るのに。どうすることもできぬ。
 はるか地平線とも水平線ともわからぬ地に落ちる夕陽を望んでは、途方に暮れるしかなかった。


<第2章へつづく>

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大和川と石川の合流地点(大阪府柏原市)




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◆第1章 5話 ”国栖(くず)”


 スメラミコトを先頭とする軍が吉野へ向けて行軍した。
 大鷦鷯らは隊列の中央あたり、舎人と兵に挟まれるかたちで歩いた。
 道中、邑の近くを通り過ぎると、民が呆気にとられた表情でこちらを見ていたのが印象的であった。そらそうであろう。こんなザクザクと足音を立てながら金色の甲冑を着た集団が行進してきたら、われでもあんな風に口をあけて見るに違いない。
 峠を越え、山脈の間を縫うように流れている川に行き着いた。吉野川である。独特の岩がむき出した河原の景観が目に入ってきた。背後に迫る山々は、晴れているのにも関わらず霧がかかっているように霞んでいた。
 初代スメラミコトは、日下で長髄彦(ナガスネヒコ)の襲撃を受け引き返したあと、熊野からこの吉野を抜け大和入りを果たしたという。吉野の民は初めからスメラ一族に従い助けた。山中から独特の風貌で現れた吉野の民を、初めスメラメコトの一行は山から下ったカミと思った。“アラヒトガミ”が助けに現れたと。もちろん、そうではなく吉野の民もわれらと同じ人であったが、八咫烏族(鴨族)といい、大和の南部には不思議な装束に身を包む土着の族がいるので、この畏怖する山の雰囲気の中にいれば、そう思ってしまうのもわからなくもないと思えた。
 初代スメラミコトが熊野から吉野へ抜けたのは、結果的にはスメラ族にとって功を奏した。従う戦力を得たというのもそうであるが、もう一つの大きな成果があった。大地の血液である朱(丹)の鉱脈に当たったことである。
 朱は大陸では不老不死の薬にもなるとも考えられ重宝されており、貴重な交易品となっていた。父上の母上、気長足姫尊も新羅征伐の際には大量の朱を持っていき交渉の材料にしたという。半島の百済や加羅諸国は、倭国のその財力とそこからくる軍事力を頼ったといえたのであった。つまるところ、朱を征したものが国を征する。そういった意味で、まさに大和はスメラ族をスメラ族たるものにした地であった。
 しばしの休憩のあと、川沿いに歩き、深い谷のような場所に着いた。ここが目的地の国栖(くず)であった。
 一行は、国栖の民に丁重に迎えられたあと、陽が沈むのを待ち、スメラミコトおよび軍師の葛城襲津彦、御子の大鷦鷯たちだけでさらに深い断崖絶壁に進み入った。
 あたりは漆黒の闇。灯りは先導する国栖の民が持つ松明だけである。おそらく岩場から足を踏み外せば崖下に落ちる。慎重に足もとに集中しながら歩いた。しばらく歩くと、崖の突き当りのようなところに辿り着いた。
 国栖の民が松明を両側に立て掛けると、岩場の前になにかを並べはじめた。カミへの御調(みつぎ)であった。その中には、大きな赤い蛙の姿があった。大鷦鷯は目を見張り、ゴクリとつばを飲み込んだ。昼からなにも口にしていなかったからだ。
 御調を載せている祭器は天の香具山の土で作られたものであろう。これも初代スメラミコトが大和入りした時の伝承に基づいていた。初代スメラミコト一行は、天神地祇を行うために祭器を作る必要があったが、地元の民の弟猾(オトウカシ)によって、山の香具山の土を使うようにと進言があったのだ。どうやら古くから大和ではそういう風習があったらしい。以降、大和で行われる祭祀で使う祭器は天の香具山で取れた土を使う慣わしになっていた。年を越した春過ぎの頃、白装束に身を包んだものたちが天の香具山に入り土を取る。大和の季節の移り変わりを象徴するかのような儀礼であった。
 国栖の民によって、カミへの祝詞(のりと)が詠まれたあと、舞がおこなわれた。
 誉田宮でも神嘗の際には巫女による舞が行われるが、それとは全然違う。まず、翁が舞を舞っている。動きもどこか力強い。松明の揺らめく火の中に浮かぶその姿を見ていると、なぜか寒気がして鳥肌が立ってきた。
 舞が終わり、また断崖絶壁を心もとない明りを頼りに戻ると、深夜にも関わらず兵らが整列して迎えた。そして宴がひらかれた。大鷦鷯の腹は限界であった。目前に並べられた国栖の民のもてなしをたらふく腹に収めた。
 いつもならそれで眠くなって横になってしまうところであったが、なぜか全身が総毛立つような感覚がし、まったく眠いと思わなかった。仕方なくあたりをうろついてみることにした。
 兵たちは固まって体を休めていた。篝火のせいもあるであろうが、皆怖い顔をしているように見える。ただ不安なだけなのかもしれない。それでも大鷦鷯の姿を見るとしっかりと礼をして道をあけてくれた。
 向こうに女子の姿が数人見えた。宴でもてなしてくれた国栖の娘であろう。声をかけてみようと近づいていった。女子たちの話す声が徐々に聞こえてくる。すると、ふいに「大鷦鷯さま」という言葉が聞こえてきた。なんでわれの名前が?大鷦鷯は咄嗟に近くの岩場に身を隠した。

「ねぇ。御子さまを見た?」

「うんうん。見た見た。かっこよかったね」

 女子たちがくすくすと笑いを交えながら話している。大鷦鷯は「ほほう」と期待しながら聞き耳を立てた。

「大長守さまかっこよか」

「うちは、稚郎子さまかな」

「まだ幼子やん」

 はははと笑う声。

「でも稚郎子さまは、どこか一番大人びているというか。あの綺麗な横顔。きっと大人になったらもっと令(うるわ)しいお方になるわ」

「大鷦鷯さまは?」

「きゃはは!」

 一人の女子が大きな声だしたので、「静かに!」と他の娘が諭した。一瞬女子たちの声が小さくなったが、またすぐに戻った。

「大鷦鷯さまは、優しい人らしいで」

「たしかに。一番気さくに皆に話しかけてたしな」

 大鷦鷯はにんまりと笑う。さてここでわれが姿を見せたら女子たちがどんな喜ぶ顔をするだろうかと想像した。

「でも、一番ぶさいくやな。背も小さくて短足やし」

「きゃはは!」

「こら静かにって言うとるやろ。あんたそんなこと言って誰かに聞かれたどうすんの?」

 静寂になる。女子らがあたりの気配を伺っているのがわかった。大鷦鷯は息をとめた。
 少しの間があって、気配がないとわかったのか、女子らはまた会話を再開した。

「そうかな。わたしは大鷦鷯さまが一番優しそうでええけどな」

「男は優しさだけやあかん。やっぱ令しさも」

 全員がくすくすと笑った。
 大鷦鷯はまったく出て行く気をなくして、音を立てぬように岩場から離れた。
 女子たちは誰もいないと思って話しているのだ。責めても仕方がない。
 たしかにわれは兄上などに比べると背が低く短足だ。ぶさいく…というのは気にしたことがないが、きっと女子らが言うからそうなのであろう。でも今まで不自由したことはなかったので別に気にはしなかった。むしろ、女子たちのことを案じた。聞き耳を立てたのがわれだからよかったからで、他のものならどうなっていたことか。咎めぐらいで済まなかったであろう。
 ここは、やはりわれが出て行って諭してやるべきか。大鷦鷯は女子たちのところに向おうと踵を返した、その時だった。

「こんなところでなにをしているのでございますか」

 うしろから声がして、大鷦鷯は驚いて思わず「わっ」と声を出した。
 振り返って闇の中に目を凝らすと、かすかな篝火の明りに照らされた稚郎子の顔があった。まったく気配を感じなかった。不気味なやつだ。

「いきなり声をかけるな。食べたものを吐き出すかと思たわ」

「すみませんでございます。丁度兄上のお姿を探していたもので」

「われを?なぜや」

 そういえば、もうこの弟とは口をきかんと決めたはずやのに言葉を交わしていた。

「兄上が呼んでおります」

「兄上…、大長守の兄上か?」

「はいでございます」

「なんの用やろうか?」

「それはわからないのでございます」

「……」

 ふと視線の端に、先ほどの娘たちが立ち上がりこちらを見ているのが見えた。

「兄上はどこにおられるのや?」

「あちらでございます」

 稚郎子は言うなり振り向いて歩きはじめた。
 大鷦鷯は一歩遅れる。忙しいやつやなと仕方なく後を追った。




 焚き火を前に兄弟三人が顔を合わせた。
 大長守は、この度の戦のことについて語った。
 だいたいのことは誉田真若から聞かされていたので、目新しいことはなかった。わざわざわれを呼んで話すことなのか?と、大長守に言おうかと思い始めた頃、話は意外な方向になった。

「父上は、武内宿禰どのを疑っておるらしい」

「えっ?」

 武内宿禰…。第八代スメラミコトの孫にあたり、第十二代の大足彦から父へと代々スメラミコトを支える大臣として仕えてきた重鎮である。父がその武内宿禰に疑いの目を向けているとは尋常なことでない。

「なんか根拠があるんか?」

 大鷦鷯は、大長守に少し挑戦的な口調で訊いた。
 大長守は、ふんと鼻で笑うようにすると、真顔に戻り言った。

「今回の百済出兵で、最後まで反対したのが武内宿禰どのらしい。実はこの吉野あと、兵軍は九州の筑紫に向かうが、武内宿禰どのも向かうことになっている。軍師ではないのに派遣させるのは実質の反逆扱いではないかと噂されている」

「なるほど、そうでございますか」

 稚郎子がこれみよがしにうなずいた。
 大鷦鷯はその澄ました顔が癪にさわった。特に武内宿禰の肩を持つつもりはなかったが、ここは反論したくなった。

「そんなの武内宿禰の腕を見込んでのことちゃうんか?大臣を直接向かわせるということは、それだけ今回の戦に全力を…」

 大鷦鷯が言い切る前に、大長守は被せて言った。

「武内宿禰どのはもうご老体だ。最前線に行かせるのはいくらなんでも不自然だ。皆もそう言っておる。それに…」

「それに…?」

 言い淀んだ大長守に、稚郎子が首をかしげ促した。

「武内宿禰どのは新羅と内通して、実は倭国を転覆させようとしているとまで噂されておる…」

 さすがに大長守は声をひそめて言った。

「……」

「……」

 大鷦鷯、稚郎子と絶句した。
 しかし、いくら大長守の話であろうと、こんな恐ろしい話をそう簡単に信じられる話ではなかった。もし、それが本当だとしたらそれこそ倭国の危機。いや、スメラ族始まって以来の危機ではないのか。そういえば、軽島豊明宮でも武内宿禰の姿を見なかったが…。

「大長守の兄上…」

 稚郎子が口をひらいた。

「武内宿禰どのは気長足姫尊の時代に、実質百済新羅の和平の立役者であったと聞いたのでございます。その時は朝貢による問題であったと言いますが、戦の危険もあった。武内宿禰どのが臣下の千熊長彦(チクマナガヒコ)を派遣し、交渉で事なきを得たということで…」

 そこで稚郎子は、大鷦鷯の方に視線をやった。

「大鷦鷯の兄上が佩刀しているその七支刀。それがそのとき百済の近肖古王(キンショコオウ)が千熊長彦に朝貢を誓い、倭国に贈った一品の一つなのです」

 大鷦鷯は顔を下げて七支刀を見た。

「武内宿禰どのは、ただ仕えた気長足姫尊の遺言に沿いたいという思いだけなのかもしれないのでございます。百済に攻めるのを強く反対しているのはそれが理由ではありませんか?」

「うーむ」

 大長守は腕を組み唸った。

「たしかに、われも確信があるわけではない。おまえたちにこんなことを話すべきでなかったな…」

 大長守は、少し笑みを浮かべて言った。

「しかし、稚郎子。おぬしよう勉強しとるのう」

 と大長守はがははと笑った。
 稚郎子は、「まだまだでございます」と頭をさげた。
 大鷦鷯は、ここは自分もなにか物を申さないといけないと思って、

「本当に困った時は、逃げたらええんや」

 と言った。
 大長守と稚郎子が大鷦鷯を見る。

「…大鷦鷯。それはどういう意味だ」

 大長守が首をかしげた。

「そのままの意味や。倭国が本当にどうにもならんようになったら逃げたらええんや」

「がははは」

 大長守が顔をあげて笑った。稚郎子も笑みを浮かべた。

「なぜ笑う?」

 大鷦鷯は稚郎子の方を向いて睨んだ。
 稚郎子はすぐ真顔になり、

「兄上。逃げるとは、どこに逃げるというのでございます。大八州は大陸の行き止まり。この先には海原しかありません。われらに逃げるところはないのでございます」

「……」

「異国のものたちが多くこの大八州にやってきているのも、ここが最後に逃げる場だからなのでございます。逃げる…というのも状況によってはありえますが…。たとえば、荒ぶるカミによって起こされる地揺れや水害は逃げるべきでありましょう。それはカミはわれわれからすべては奪わないからであります。地揺れは必ず収まり、水害も必ず収まります。われわれはまたその地に戻り、土地を耕すことができるのであります。しかし、人と人の戦はそうはいかないでありましょう。一度取られた土地を取り戻するのはとても困難です。それが、しかも言葉も通じぬ大陸のものが相手であったのなら尚更であります…。略奪され、殲滅され、もはや倭国は消えてしまうことでありましょう。兄上は、それでもよいから、逃げろとおっしゃるのでありますか?」

「………」

 大鷦鷯としても、ここまで徹底的に否定されると腹が立つより、正直悔しいが感心してしまった。

「まぁまぁ、弟たちよ落ち着け。今倭国は大きな岐路に立たされておるのは事実だ。おまえたちはまだ成人前ではあるが…、倭国の行く末をしっかりと見ておくのだ」

 大長守は穏やかには言ったものの、有無言わせぬ気迫があった。
 大鷦鷯と稚郎子は互いに見合い、うなずくしかなかった。


<つづく>

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浄御原神社(吉野郡吉野町南国栖)
奈良観光ガイド【浄御原神社への行き方】




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