奈良公園に鹿がいるのは、
タケミカヅチが茨城の鹿島神宮から白い鹿に乗ってやってきたという、
春日大社の伝説に基づくものであるということを知っている方も多いと思う。
しかし、それはあくまで伝説であり、まさか本当に大きな白鹿に乗って、
神様が茨城からやってきたと信じる人はいないであろう。
こういう古代史の大きな謎にぶち当たった時は、
すべて藤原不比等の捏造だとして済ます方法もあるが、
私はこの春日大社の伝説も、なにかしらの事実に基づいて出来た話であろうと思う。
まず、上記の写真を見ていただいてもわかるように、
白い鹿というのは本当に存在する。
これは、2004年頃に撮られた写真であるそうだが、(白鹿のストレス)
数年に1度、先天性のメラニン色素の遺伝子変異で白い鹿というのは生まれるそうだ。
しかし、このように白い鹿が奈良公園にいると観光客に追われたりして、
ストレスや病気になったりして早死にすることから、あまり白い鹿には良い話がない。
ただ、古代にもこのような白い鹿は自然にいたはずで、
それが春日大社創建伝説の元ネタになったのではないのだろうかと思うのである。
ちなみに、神様がやってくるのが、なぜ茨城でなくてはならなかったのか。
それは、春日大社は天皇が作った神社ではなく、当時、最大の権力を誇った藤原一族が、
自らの祖先神を祀るために作った神社であるということに大きく関係する。
藤原家といえば、あの大化の改新以降活躍する中臣鎌足を先祖とする家系である。
中臣鎌足は、晩年天智天皇から「藤原」という名前をもらう。
中臣家は、代々「連(むらじ)」として、祭祀を担当する役職の家柄であった。
「連」とは、天皇家のアマテラス以外の神の子孫の家系とされ、
神と人の間を取り持つ役職なので、「中(なか)」臣なのである。
その中臣家の名前が、一度歴史から消える時期があった。
それは、仏教伝来後起こる、蘇我氏と物部氏と内乱だ。
結果、仏教信仰派の蘇我氏が勝ち、日本は公式に仏教を信仰することになるが、
その時、日本には古来からの神々がいると反対したのが、物部氏と中臣氏であった。
負けた物部氏と中臣氏であったが、完全に一族が消滅したわけではなかった。
実は、中臣家は第10代崇神天皇の時代に、
茨木の鹿島神宮を治めよと一族が移住をさせられてたといい、
中臣鎌足は茨城出身であるという説もあるそうであるが、
その後の大化の改新からの中臣家=藤原家の台頭は、
仏教伝来以降の中臣家の大復活劇だったと考えることもできるのである。
その藤原(中臣)家の象徴ともいうべき、春日大社の創建に、
茨城の鹿島神宮の神を持ってくる(勧請)してくるというのは、
大きな意義があったというわけだ。
そして、登場するのが白い鹿である。
元から、鹿島神宮には鹿を神の使いとして信仰していたそうであるが、
その鹿島神宮の神様であるタケミカヅチを奈良の春日大社へ勧請(移動)させる際に、
鹿も同行させたのではないか。
(勧請(かんじょう)とは、剣などのご神体に神の魂を移して分身を作り移動させることで、
人の姿をしたタケミカヅチが移動するということではない)
もしくは、物理的に鹿が移動することはなくとも、タケミカヅチが移動するということは、
必然的にその使いである鹿も移動するということであり、
元々奈良の山にも鹿はいたと思われるので、
鹿を神の使いとする信仰が移動したということなのではないか。
そして、そのような状況下の時に、偶然白い鹿が奈良の地で産まれ、
その神聖な姿から神のお告げに違いないと当時の奈良の人は信じたのか、
それとも、その時期にたまたま鹿島神宮の地で白い鹿が産まれ、
それを神聖な白鹿として春日大社に献上?をしたのか。
日本人は、このような伝承の種明かしをしたがるものであるが、
意外と真実や真意を伝えていたりするものなのである。
なにより、今から1000年近い前の平安時代に、
すでに春日大社付近には、鹿がうろついていたという記録が残っている重要性である。
世界には、ヘラジカなんてバケモノみたいな鹿も実際にいるので、
本当に人が乗れる大きさの鹿が、
奈良時代の日本にはいたのかもしれない。
無きにしも非ずであるw
参考文献:
奈良 地名の由来を歩く (ベスト新書)