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橿原市今井町は、江戸時代から建てられた民家が多く残り、
伝統的建造物群保存地区として文化財保護法に盛り込まれている町である。
「称名寺」を中心として栄え、今は面影は少ないが環濠で囲まれた寺内町であった。
現在は、観光客も訪れる観光地としての側面もあるが、
厳密なところ観光地ではなく、今現在も地元民が生活を営む生活圏である。
先日コラムで取り上げた「南都銀行」もしっかり今井町内にあり、
生活感を漂わせている。
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ただ単に、街並みを眺めながらブラブラするのも良いであろうが、
やはり、歴史を感じるのが今井町の真骨頂であろうか。
あまり知られていない話といえば、
明治天皇が今井町に訪れていることであろうか。
それは明治10年のこと、神武天皇の畝傍山東北陵に参拝のため、
陵に近い今井町の称名寺が行在所になり訪れられた。
その時、明治天皇の馬車が通るスペースを空けるため民家の軒先が切り取られたといい、
今もその短い軒先は見ることができる。
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酷い話のようだがw、私は「素直に凄い!」と思ってしまう。
さらに天皇陛下が行幸で移動する際には、
三種の神器の「勾玉」「草薙の剣」も一緒に移動しなければならなく、
おそらく、この時も移動してきただろうと思われるが、
なんと行幸の際には、お風呂も一緒に移動してきたという。
というのも、入浴というのはある意味一番無防備になる時なので、
安全面や防犯上の意図もあったのでないかと、以前ガイドさんに説明を受けたこともあるが、
おそらく、清(清浄)と次(不浄)のしきたりがあったためと思われる。
下半身の触れたお湯で上半身を穢してはいけない 明治天皇の入浴法(デイリー新潮)
その風呂桶が、なんと今も称名寺に残されているそうだが、
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なぜ、風呂桶だけが残されたのか?
実は、神武天皇陵への行幸中、
急いで都(東京)へ帰らないといけない事態になったからだという。
そう、明治10年といえば、西郷隆盛が挙兵した西南戦争が勃発した時である。
明治天皇一行は急いで称名寺を後にしたそうで、
どうやら風呂桶は置いていったようだw
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まさに、その時歴史は動いた瞬間と言えよう。
今井町は時空を超えた町である。
称名寺の本堂(重要文化財)は、現在解体修理中。復活が待たれる。


■称念寺
住所【奈良県橿原市今井町3丁目2−29
電話番号【0744-22-5509
駐車場【今井町 観光駐車場
HP【http://www.imaicyou-syounenji.com/

参考サイト:
明治天皇 絵画と聖蹟「第15回 畝傍陵親謁(うねびりょうしんえつ)」(明治神宮崇敬会)