正倉院とは、東大寺にあるいわば倉庫であり、
奈良時代に東大寺のような大寺院には寺の宝物を保管するため、
倉庫(正倉)が立ち並ぶ区域があり、その一帯を正倉「院」と呼んでいた。
しかし、長い歳月の中で多くの正倉は失われ、
現存している東大寺の正倉の一棟が、「正倉院」という固有名詞で呼ばれるようになったのである。
よって、校倉造りの倉庫といえば、東大寺の「正倉院」のことを指すが、
当時、寺の宝物を納めるための倉庫はそれほど珍しいものではなく、
現に、東大寺の三月堂の前にも校倉造りの「法華堂経庫」は現存し、
唐招提寺には、実は正倉院より古い校倉造りの「宝蔵」と「経蔵」が現存している。
三角形に加工した木材をログハウスのように積み重ねた高床式建物を、
「校倉造り(あぜくらづくり)」と呼ぶが、
このような独特の風貌の高床式建物は世界にも例がなく、
日本で独自に進化、改良されたものと考えられている。
高床式建物自体は世界各地に存在し、それらが日本に伝来した可能性を考えられるが、
高床式建物は、4000年前の縄文遺跡からも発掘されており、
桜町遺跡について(富山県HP)
富山県桜町遺跡でみつかった部材と復元高床建物(群馬県埋蔵文化財調査事業団)
一般的に言われる、弥生時代の稲作伝来や飛鳥時代の仏教伝来時より、
はるか昔から日本ではこのような高床式建築がつくられていたのは間違いない。
よって、東大寺が作られる奈良時代には、
すでに成熟した高床式建築技術が確立されていており、
日本の気候に適した独自の「正倉院」のような校倉造りが作られたのであろうか。
ちなみに、昔からよく言われている、木材が湿気によって伸縮し、
内部の湿度が適度に保たれていたという説は現在では否定されており、
むしろ、宝物を入れていたスギの唐櫃(からびつ)が、
虫食いや急激な湿度の変化による劣化を抑えていた大きな要因と考えられている。
近年では、このスギなどの木材繊維が汚染物質を分解することが判明しており、
阪奈トンネルの排ガス浄化に役立っているということは、
以前、当ブログでもご紹介した。
奈良のトンネル9「阪奈トンネル」
正倉院の宝物は、756年聖武天皇の四十九日法要の際、
光明皇后が聖武天皇を想い、その愛用品や国家に献上された宝物を
廬舎那仏(大仏)にお供えとして捧げたことが始まりで、
その後、東大寺に関係する仏具や古文書なども保存されていき、
時代とともに失われたものも多いが、現在、9000点もの宝物が伝えられている。
宝物は残されるべくして残されてきたものであって、このような古代の遺物が発掘されるのではなく、
1300年に渡り保存保管されていたということが世界にも例を見ない。
現在、宝物は1963年に新しく建てられた西宝庫で保管され、
毎年、天皇の使いがやってきて開封し、点検チェックされており、
(宝庫は奈良時代から天皇の命令による「勅封」がされており、
現在も伝統が受け継がれ「開封の儀」「閉封の儀」が行われる)
毎年多くの人が訪れる「正倉院展」は、約二週間ほどの短い期間であるが、
それは点検が目的なのであり、展示のために宝物が出されているわけではないからである。
(現在も、あくまで宝物は天皇家の所有物(私物)という扱いになっている)
正倉院の宝物が、一般人に公開されるようになっていくきっかけは、
天保2年(1831)、奈良奉行に就任した梶野良材(かじのよしき)が、
正倉院の宝物の開封点検、修理を指示し監督したあたりからとされ、
明治8年(1875)に、社寺の所蔵する文化財を展示する博覧会が奈良で行われることになり
東大寺大仏殿と回廊に宝物が展示されたのが、
初めての一般人への正式な公開であった。
現在の「正倉院展」に直接つながるのは戦後で、
第二次世界大戦中、宝物を奈良帝室博物館(現・奈良国立博物館)に避難させていたものを、
「正倉院特別展観」として昭和21年(1946)に公開されたのが、実質の「第1回正倉院展」となった。
それは、宝物を一般公開させることによって敗戦後の日本人を元気づけ、
日本文化の素晴らしさを再認識してもらおうと声があがり実現したものであった。
まさに、日本の歴史が脈々と続いてきたことを感じられるのが正倉院の宝物なのだ。
参考文献サイト:
カラーでわかるガイドブック 知ってる? 正倉院: 今なおかがやく宝物たち
正倉院(Wikipedia)
梶野良材(Wikipedia)
校倉造り(コトバンク)
正倉院の楽器(Moto Saitoh's Home Page)
第69回正倉院展(奈良国立博物館)