「奈良(なら)」は、「那羅」「平城」「寧楽」とも書いて「なら」と読むが、
ご覧のとおり、漢字に意味のない日本語の名詞などは、
もともとあった日本語に漢字が当てられたものである。
よって、漢字が日本に入る前から、
「なら」という響きの日本語が存在したということである。
では、「なら」という言葉は本来どのように使われていたのかの語源であるが、
それは簡単に説明がすることができる。
なぜなら、日本書紀に「なら」の由来が書かれているからである。
また大彦と和珥氏の先祖、彦国葺を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。
その時忌瓮(神祭りに用いる瓮)を和珥の武坂の上に据え、
精兵を率いて奈良山に登って戦った。そのとき官軍が多数集まって草木を踏みならした。
それでその山を名づけて奈良山とよんだ。
(日本書紀・記紀万葉でめぐる天理)
これは、日本書紀の第10代崇神天皇の時代に描かれるもので、
埴安彦(孝元天皇の皇子)が妻・吾田媛と謀反を企み、
四道将軍によって討たれるという場面である。
埴安彦は山背(現・京都府)の方から軍を率いて攻め込んできており、
決戦は現・奈良市の北側の山で起こった。
その時、その山の草木が四道将軍(官軍)によって草木が踏みならされ、
よって、その山を奈良(なら)山と呼んだと書いてあるのである。
これがまさに「なら」の語源であるということがわかる。
しかし、なぜそんな当たり前のことを説明するかというと、
「なら」の語源が、朝鮮語の「ウリナラ(祖国)」からであるという説が、
都市伝説のように存在するからである。
「ナラ」と「ウリナラ」いう言葉の響きが似ているというのが根拠であるが、
日本語の「なら(nara)」と、朝鮮語の「나랗 (narah)」とは言語学的には発音が違い、
中国語の「壌(narak)」が起源であろうと実際は考えられている。
しかし、戦後、そのような日本語朝鮮語由来説を、
在日韓国人の自称言語学者たちによって広められたという事実があり、
あの山田洋二監督の「学校」でも、そのようなセリフをいうシーンがあった。
よって、耳にしたことある人も多いであろう。
しかし、そもそも「나랗 (narah)」も含め朝鮮語の歴史というのは、
学術的には15世紀頃までしか遡れることができず、
古代、日本でいう飛鳥時代や奈良時代に朝鮮半島では、
どのような言語が使われていたのかはまったくわかっていないのである。
わかっていないものを比較することはできない。
言語の比較は、当時の言葉同士で比較するのが鉄則である。
日本は幸い、万葉集や古事記などで膨大な日本語の資料が残っていたおかげで、
古代の日本語というものがわかるのであるが、同時代の朝鮮語の資料は皆無に近いのだ。
未だに巷では、「古代朝鮮語で読む解く万葉集」だとかいう本があったりするが、
まったくもって話しにならないファンタジー(妄想、願望)といっても過言ではない。
詳しい解説は下記のサイトなどが詳しいのでぜひ見ていただきたいが、
古代日本語いんちき解釈の一例
古代朝鮮語解読のさわり
音が似ているだけで、語源を遡ることができるのであれば、どうとでもいえることができる。
たとえば、現在の奈良市には、「都祁(つげ)」という地名があるが、
これは、日本書紀では「闘鶏」などと表記され、同じく「つげ」と読む古い地名であるが、
これまた古代朝鮮語由来という説がある。
古代朝鮮語で「日の出」を意味する、「都祈野(トキノ)」からきているそうで、
たしかに奈良市の都祁は、奈良の都から見たら日の上がる東の方角である。
しかし、まだ「ウリナラ」であるなら音の響きが似ていることは理解できるが、
「トキノ」なんてまったく違うではないかw
そんな程度の根拠でよいのならば、奈良の「都祁(つげ)」は、
英語の「Together(ツギャザー)」と似ており、
古代日本人は、英語で「一緒に」を意味する「Together」を、
「皆で一緒に暮らす村=ツゲ」と呼んだなどと、適当なことはいくらでも言える。
日本語古代朝鮮語由来説は、そのようなレベルであるということがわかっていただけるであろう。
古代のことはわからないことが多いので、
適当なことでもまかり通ってしまうところがある。
それは日本人に基本的な歴史の知識が欠如しているせいであろう。
「なら」が朝鮮語由来であるなら、日本書紀にそう書かれているはずであるし、
そう書いてあってもなんら問題ないはずだからだ。