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奈良県磯城郡三宅町に「屏風(びょうぶ)」という地名がある。
この地は、聖徳太子が明日香から斑鳩宮(法隆寺)に向かう際に、
通ったとされる「太子道」が通る場所であるが、
地名もその聖徳太子との逸話に由来するという。

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現在、古代の太子道の面影は多くはないが、
一番よくその雰囲気がわかる場所が三宅町のあたりだ。
別名「筋違(すじかい)道」とも言われたように、
(寺院建築などの屋根を支える筋違の見た目からきている)
まさに斜めに道が貫くように道の痕跡を残す。

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丁度、この三宅町の太子道の中間あたりにある「白山神社」「屏風杵築神社」に、
太子の愛馬「黒駒(くろこま)」と、世話をしていた「調子麻呂(ちょうしまろ)」の像が建てられており、
太子が休憩したという「腰掛石」や黒駒をつないだ「駒つなぎの柳」も残る。
太子は、明日香から斑鳩への遠い道のり、いつも唐院の村を越して伴堂の村に差しかかる手前、
この三宅町のあたりの大きな楊の木に馬を繋いで道傍で休憩していたと言い、
そこを通る百姓たちは、太子のめざわりになってはいけないと、
立派な屏風をこしらえて、
屏風の中で太子に休んでいただくことにしたという。
(屏風村の由来/大和の傳説 - ななかまど)

「屏風」という地名は、なんと村人たちの太子へのもてなしが由来になったというのだ。
その他にも、村人が風を防ぐために屏風を立てて食事を差し上げたなど、
微妙に伝来の違いもあるようであるが(屏風池の由来(ため池博士のため池研究サイト)
太子のために村人が屏風を用意したというのは共通している。
もちろん伝承ではあるのであろうが、私は個人的にも好きな話で、
奈良ならそんな話もあってもおかしくないと思える。
しかし最近、隣町の安堵町には、12mもある太子像が出来たので、
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安堵町に巨大(12m)聖徳太子の案山子現る
屏風も20mくらいのものを用意しないといけなくなった(震え声)

参考サイト:
聖徳太子プロジェクト磯城郡三宅町(いかす・なら)