2018年10月7日に落慶法要された興福寺中金堂。
300年ぶりに復活したその姿は、寺としては悲願であり、
まさに名前のとおり、寺の中心となるお堂が境内に復活したことを意味する。
中金堂は、この度8度目の再建で、7回焼失していることになるのだが、
記録は以下のようにされているという。
①永承元年(1046年)の大火
②康平3年(1060年)の大火
③嘉保3年(1096年)の大火
④治承4年(1180年)の大火(平重衡の南都焼き討ち)
⑤建治3年(1277年)の大火
⑥嘉暦2年(1327年)の大火
⑦享保2年(1717年)の大火
興福寺といえば、立地とともに奈良の最大規模の寺院と言っても過言ではないが、
故に、落雷や失火などに多く見舞われているとも言える。
しかし、そこは興福寺(藤原家)だけに、
時の朝廷や幕府の援助によりその都度再建されてきたが、
享保2年(1717年)以降は、德川家が寺院復興に積極的ではなかったことなどから、
大規模な再建は叶わなかったという。
そういう意味でも、この度の中金堂の復活は、
我々も歴史の一幕を体験していると思えば感慨深い。
興福寺の復興事業計画は、平成3年(1990年)に立ち上がり、
その中核である中金堂の再建工事は、平城遷都1300年祭(2010年)から始められた。
結果、8年がかりで工事が完了したわけであるが、
長らく覆い屋がかかり、2015年に訪れたころは、上記の写真のような様子だった。
未だ、こちらの姿の方が印象にある人も多いであろうw
今回の再建で、一番印象的に語られるのが、
柱材の仕入れである。
実は、奈良には多くの古代の建築物が残るが、
もし失われたら、もうその姿を永遠に見ることはできないであろうと言われている。
なぜなら、材料(木材)が無いからである。
法隆寺も1300年前だったから、国産の上質のヒノキをふんだんに使い作れたのであり、
中金堂の再建に至っても、最大のネックが柱材の調達であった。
調査の結果、カメルーン産のケヤキが良質だということがわかり、
入手することになったが、それも一筋縄ではいかなかったという。
実は、カメルーンでも現在は原木の輸出は禁止になっており、
伐採することはできないが、伐採済みの在庫品なら可能とのことで、
奇跡的に存在していた数百本の在庫品を購入することができたのだ。
しかし、まとめて買うと原木の需要が上がったと見られて、
値段が高騰してしまう可能性があるということで、
二社の木材会社を通じて、少しづつ購入していったのだという。
平成10年(1990年)ころから買い始め、7年後の平成17年の段階で100本近くになっていたといい、
最終的には500本近くの原木が調達できたのだという。
ほんとにいいの?というような話だがw
平成29年(2017年)には駐日カメルーン大使夫妻が興福寺を訪れ、
「こんな立派な木がまだカメルーンにあったのか」と驚かれる一幕もあったという。
創建当時、寺院建築では最大規模であった中金堂(平城宮の大極殿と同規模)。
現在は、すでに一般公開も始まり、500円の拝観料を払えば誰でも拝観できる。
奈良の社寺といえば、古き趣のイメージする方も多いであろうので、
真新たしいその姿に少し違和感を感じる人もいるかもしれないが、
逆にいえば今のような状態は今しか見れないのだ。
金箔を貼りなおした本尊の「釈迦如来坐像(江戸時代)」も、輝く姿で甦り、
復活という意味では、西の柱に描かれた「法相柱(ほっそうちゅう)」も、
古式にのっとって復元されたものだ。
絵そのものは、奈良出身の画家「畠中光亨」氏が描いたものなので、
少々面食らってしまう人もいるかもしれないが、平安時代の中金堂再建の記録には、
柱に描かれた「法相祖師影像」も再興されたとあるという。
「法相祖師影像(ほっそうそしえいぞう)」とは、興福寺の宗派「法相宗」の開祖からを描いたもので、
まず、その元になる教えを作ったインドの「①世親(せしん)」、「②無著(むじゃく)」。
その後、その教えを発展させた「③護法論師(ごほうろんじ)」、「④戒賢論師(かいけんろんじ)」。
そして、それを唐に伝えたのが西遊記でも知られる「⑤玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)」。
「⑥慈恩大師(じおんたいし)」がそれらを漢文に翻訳し、実質「法相宗」の開祖となる。
その門下が「⑦淄州大師(ししゅうたいし)、「⑧濮陽大師(ぼくようたいし)」。
その濮陽大師に学んだのが遣唐師の「⑨玄昉僧正」で、日本に法相の教えを伝えた。
その後、平安から鎌倉時代にかけて法相宗の発展に貢献した僧侶が、
「⑩善珠僧正(ぜんしゅそうじょう)」、「⑪別当行賀(べっとうぎょうが)」、
「⑫真興上綱(しんごうじょうこう)」、「⑬権別当蔵俊(ごんべっとうぞうしゅん)」、
「⑭解脱上人(げだつしょうにん)」で、柱には下から順に、
「インド→唐→日本」と僧侶が描かれているという風になっている。
興福寺の復元事業は中金堂再建で終わるわけではない。
現在も、東金堂や北円堂の回廊の基壇調査は随時行われており、
天平伽藍の復興が計画されている。
興福寺は、特に明治期の廃仏毀釈により大きなダメージを受け、
塀も取り壊され、奈良公園の一角という扱いである。
観光客的には、そちらの方が嬉しいかもしれないが、
寺が元の姿に戻ろうとするのは、歴史を見れば必然である。
私たちもその歴史の中にいると感じられるのは、
まさに奈良らしいといえるのではないのだろうか。
参考文献:
奈良の本23「蘇る天平の夢 興福寺中金堂再建まで。25年の歩み」