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初代神武天皇を祀る「橿原神宮」。
その横には、神武天皇の御陵「神武天皇陵」がある。
このあたり一帯は、幕末から昭和にかけて、
政府によって整備しなおされた場所であり、
その強引な過程のせいもあって、また戦前の皇国史観の反動から、
「記紀」も含めて神武天皇そのものを否定する論調も未だ根強い。
しかし、物事はそう単純ではなく、
畝傍山の北側にある中世(室町時代)から作られた今井町には、
唯一南北に真っ直ぐにつらぬく道が造成されており、
これは神武天皇陵への参拝路であった名残りだという。
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現在の橿原神宮や神武天皇陵があるあたりというのは、
なにも近現代になって、突然神武天皇の伝承地として注目されたわけではないのだ。
「日本書紀」にも、天武天皇が神武天皇陵を参拝したと記述があるように、
ここで重要なのは、神武天皇が実際に存在したのかどうかの問題とは別に、
少なくとも、"神武天皇陵"は存在した
ということである。
あえて誤解を恐れずにいうと、神武天皇という存在を奈良時代に捏造したとしたら、
その時、そのシンボルとなる神武天皇陵も捏造したはずである。
なぜなら、「古事記」や「日本書紀」に神武天皇陵の場所はハッキリと書かれており、
平安時代の「延喜式」には、ご丁寧に大きさまで書いてある。
ウソを書いたら、この時代ならすぐ現地に行って確認されてしまうw
仮に、この時作られたのを「真の神武天皇陵」と呼ぶことにしよう。
しかし、室町時代以降、天皇の権威も落ちたこともあろうか、
戦国時代の混乱期も経て、「真の神武天皇陵」の場所はうやむやになり、
わからなくなってしまったというところが事実のようだ。
以前にコラムで書いた丹生川上神社下社も、
かつては名神神社と社格のあった神社なのに所在地がわからなくなっていたという件もあった。
コラム122「馬に会える神社。丹生川上神社下社」
日本の歴史が長い故に、このような問題に直面するとも言えるであろう。

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明治になって神武天皇陵を治定し整備しようとなった時、
丹生川上神社と同じように、候補地が3つあった。

①、畝傍山中にある丸山と伝承される陵墓。
②、神武田(じぶでん)と地名で呼ばれていた現・神武天皇陵の場所。
③、塚山と呼ばれていた現・綏靖天皇陵の場所。


上記に書いたように奈良時代に編纂された「古事記」「日本書紀」には、
神武天皇陵の所在地についてはハッキリと書かれている。
古事記には、「御陵は畝傍山の北方、白樫尾上に在り」
日本書紀には、「畝傍山東北陵に葬しまつる」とある。
平安時代の「延喜式」には、「畝傍の山の陵。畝傍の橿原の宮に御宇しし神武天皇。
大和の国高市郡にあり。兆域東西一町、南北二町。守戸五烟」
とあり、
間違いなく、この時点では畝傍山の北側あたりに御陵とされる場所があったのであろう。
中世以降も、まったく記録がないわけでもなく、
中世に談山神社の由緒が書かれた「多武峰略記」には、
神武天皇陵の陵寺として建立された「国源寺」の由来が書かれているといい、
現在もその国源寺は、橿原神宮近くに存在する(MAP)。
ただし、現在の国源寺も移転であり、元の場所はハッキリしないという。
国源寺〔橿原市大久保町〕 ~畝傍山彷徨 VII~(古社寺巡礼記)
一説には、政府は国源寺跡の基壇を御陵と誤認して、
神武天皇陵にしたのではないかとも言われ、
現在の神武天皇陵の北にある綏靖天皇陵(塚根山古墳)こそ、
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真の神武天皇陵であったという研究も存在する。
というのも、藤原京造成の時に近辺の多くの古墳が壊されたというが、
塚根山古墳(塚山)は壊されなかったという。
当時から、重要な墳墓と考えられていたということなのであろうか。

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しかし、今井町のかつての神武天皇陵への参道をそのまま南に直進すると
綏靖天皇陵とは大きくズレることになり、
ここで、古事記の「御陵は畝傍山の北方、白樫尾上に在り」が注目される。
これを言葉通り読めば、神武天皇陵は尾根の上にあったということになる。
実は、畝傍山の北側あたりには、かつて昭和初期までは、
「洞村(ほらむら)」という集落が存在していたことはあまり知られていない。
橿原神宮整備にいたって、強制移転されてしまった村として知られ、
その移転された地、現在の橿原市の大久保町地区には、
おおくぼまちづくり館という村の歴史を伝える資料館がある。

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「おおくぼまちづくり館」外観。この建物自体が洞村から移築された貴重なものでもある。

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洞村の写真(大正6年)。かつて畝傍山山麓に集落があったことがわかる。

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洞村があった頃の神武天皇陵周辺の模型。

幕末から明治にかけて現・神武天皇陵と橿原神宮は整備されていくが、
当初は洞村と並存していた。
しかし、昭和15年の皇紀2600祭に合わせて一帯が一大整備されることなり、
洞村は移転を余儀なくされることとなる。
その歴史を伝えるのが「おおくぼまちづくり館」であるが、
さぞかしここに来ると、時の政府を批判し、
神武天皇を蔑む場所であるのかと思ってしまうがw
むしろ、逆に興味深い事実がわかる場所になっている。
というのも、この洞村こそ畝傍山にあった御陵の守戸(しゅこ)であったというのである。
守戸とは、律令時代に天皇陵を警備させるために賎民に与えた職で、
賎民が足りない時は、近隣の百姓が指定されたが、
代わりに税を免除されたりした。(守戸(シュコ) コトバンク
洞村は、いわゆる被差別部落であったが、
村の伝承によると、村人は神功皇后の命により、
神武天皇陵を守るためにこの地に移り住んだ
人たちだったといい、
橿原神宮整備にいたっての強制移転の問題は、
のちに部落解運動や天皇制批判のための好材料として利用されたが、
移転後の部落に生まれ育った辻本正教(後の部落解放同盟中央執行委員)により、
洞村の人々が陵墓への畏怖心などから自主的に移転を決めた事実が明らかにされた。
もうひとつ神武天皇陵(邪馬台国研究)

洞村の伝承によると、真の神武天皇陵は畝傍山中にあった、
「丸山」と呼ばれた陵墓いうことになるが、
現在は、村の移転とともに訪れる人もいなくなり、村そのものも含め見る影もなくなったが、
山中に丸山宮址(googleマップ)として存在している。
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こんな荒れ果てた地が、にわかに初代天皇を祀る陵墓とは到底思えないであろう。
しかし、皆さんも少し想像していただきたい、
初代天皇の御陵といえば、さぞかし立派なものであったに違いないと考えてしまいがちだが、
初代天皇の頃というのは、単なる地方の首長クラスに過ぎなかった。
当時の人も、まさかその後も天皇家が2000年以上残ると想像したであろうか。
天皇家の力が大きくなってくるのは、少なくとも第10代崇神天皇ぐらいの時代であり、
山の尾根にひっそり"カムヤマトイワレビコ"が眠る墓の方がリアルな感じがする。
「古事記」の記述や、今井町の参道の位置関係からなどからしても、
この「丸山」こそが真の神武天皇陵ではないかと思われるが、
事実、明治の治定でも最有力地ではあったそうだ。
しかし、山中にあるために整備工事が困難で、
孝明天皇の行幸に間に合わない
という理由で、候補から外されたという。
結果的に、そのことがのちに神武天皇を否定するような材料になってしまったのは皮肉といえよう。
しかし、孝明天皇から丸山も候補地として大切に扱いなさいというお言葉があり、
一帯が宮内庁によって今も保全され神域として守られている。
畝傍山周辺が開発の波に飲まれることなかったという意義はあった。

今となれば真の神武天皇陵がどこであったのかそれは誰にもわからない。
ただ、宗教的な面でいえば、たとえ、現在の神武天皇陵が寺の礎石であったとしても、
たとえ、橿原神宮が政府の思惑で作られた神社であったとしても、
そこに神武天皇の御魂が祀られているという事実にはかわりはない。

■おおくぼまちづくり館

住所【奈良県橿原市大久保町40-59】
電話番号【0744-22-4747
開館時間【午前9時~午後5時(入館は4時30分まで】
休館日【月曜日(但し祝日の場合は翌日)・年末年始(12月25日~1月5日)】
料金【100円】
駐車場【あり】
HP【http://www.city.kashihara.nara.jp/okubocom/c_bunka/bunka/ookubo/

参考サイト:
若林稔さんと巡る今井町(YouTube) 
神武天皇陵はただの寺跡だって?(5ちゃんねる)
第225回活動記録 神武天皇陵の謎(邪馬台国の会)