仁徳天皇陵を含む「百舌鳥・古市古墳群」が、
世界文化遺産への登録するよう勧告されたのは、皆さんも知るところであろう。
しかし、果たしてその価値をちゃんと理解している人は、
日本にいくらぐらいいることであろうか。
仁徳天皇陵については、現在の日本の教育では考古学として学ぶことになっており、
有名な「民のかまど」の逸話も知らない人も多いかもしれない。
この度の世界遺産登録で、文化面からも脚光が当たれるとなれば意義もあろう。
実際、今回の推薦および登録にいたっては、そのような文化面も考慮されているようだ。
人々の親しみやすさも生まれているとして、地域住民やコミュニティーが保全に参加することの必要性も指摘した。構成資産に陵墓が含まれることも踏まえ、勧告は慰霊の行事や祭りが行われることなど「無形的側面」の重要性にも触れた。文化庁は指摘された点について、周辺自治体と協議しながら対応していく方針。仁徳天皇陵古墳など一部の名称を巡っては、被葬者が特定できていないとして学界などに異論もあるが、推薦書は宮内庁が陵墓として管理していることを踏まえ「天皇陵古墳」と表記した。
「仁徳天皇陵」含む古墳群、世界遺産に 諮問機関が勧告(日経)
「遺産」という言葉が、日本人的には違和感があるのかもしれない。
事実、以前に「奈良古都の文化財」として登録されるとき、
春日大社は一度断ったという経緯があったそうだ。
遺産ではなく、現在も継続されている文化だからである。
日本の天皇陵というものも、世界にあるピラミッドや始皇帝の墓などと違い、
現在も続く皇室の先祖を祀るお墓である。
極めて宗教的な側面も強い場所であるということも忘れてはならない。
仁徳天皇陵に関しては、考古学的な論争ばかりが取り上げられるが、
少なくとも平安時代に編纂された「延喜式」の時代から、
あの巨大な古墳が「仁徳天皇陵」として認識されてきたのは事実である。
1000年にかけて地元の人たちから敬われ、守られ、伝えられてきたこと。
それだけで十分な文化遺産に値するといえる。
仁徳天皇は、第16代天皇である。
名前は、「大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)」といった。
父親は第15代応神天皇であり、外交的な影響が高まっていた時代だった。
この時代に百済から伝わったとされる「七支刀」が今も石上神宮に残る。
第10代崇神天皇の時代は、いわゆる大和朝廷や大和政権といわれるように、
奈良盆地の三輪を中心とした勢力であったが、
この応神天皇から仁徳天皇の時代は、大阪の河内地方に勢力がうつり、
実際、仁徳天皇陵も現在の堺市にあるわけであるが、
このことから大和とは別の「河内王朝」といわれ、
王朝交代があったという説も言われたりする。
もちろん、そんなことは「記紀」にも海外のどこの史書にも書かれていないので、
単なる憶測、ほとんど妄想や願望に近いものといってよい。
というのも、仮に河内勢力が大和に取って代わったとして、
なぜ地政学的に軟弱な河内にいすわり大和盆地に君臨しなかったなどの説明がつかない。
よって、単純にこれは、大和の勢力が新天地を求めたというのがすんなりくる。
仁徳天皇の時代は、なによりもその開発、土木工事という印象が強い。
即位してすぐ、高津宮から町を眺め、人家から煙が上がっていないことを見た天皇は、
これは人民が貧しく、五穀が実らず百姓が窮乏しているからであり、
「今後3年間課税をやめ、人民の苦しみを柔げよう」と詔をした。
この日から、天皇の衣や履物はボロボロになるまで使われ、
宮殿の垣が壊れ、屋根が壊れても、民の負担を軽減するため課税を行わなかった。
3年後、再度仁徳天皇が高津宮にあがり町を眺めたとき、
人家から煙がたくさん上がっているのを見て、
「自分はもう豊かになった。これで心配ない」と皇后に言った。
しかし、皇后は「どこか豊かなんですか?自分の衣も宮殿もボロボロなのに?」と。
すると天皇は「人民が豊かだから自分も豊かなのだ。天が君主を立てるのは、人民のためである。だから人民が根本である」といった。
これがいわゆる「民のかまど」の逸話である。
ヨーロッパや中国であるなら、人民は君主の所有物であるのが常であったが、
まさにこれはその逆といえる発想である。
戦後は、この天皇賛美ともいえる美談は教育の現場から消され、
そもそも仁徳天皇は実在しないなんてとんでも説まで出るほどであるが、
捏造であれば、それはまた違う意味で凄いということになる。
仁徳天皇の無課税政策は、さらに3年延長され、
課税が再度行われたときには、宮殿は痛みひどいありさまであったが、
人民ら自らが協力しあい修復を行ったという。
そして、仁徳11年に詔が発せられる。
「今、この国を見ると土地は広いが田んぼが少ない。
また河の水は氾濫し、長雨になると潮流は陸にあがり、村人は船に頼り、
道路は泥に埋まる。群臣はこれをよく見て、溢れた水は海に通じさせ、
逆流は防いで田や家を侵させないようにせよ」。
以降、仁徳天皇の治世下で大規模な土木工事事業が行われる。
この時、造られたのが「記紀」によると、
「難波の堀江」と「茨田堤(まんだのつつみ)」である。
かつての大阪とは、海であり、時期によって湖であり、湿地帯であった。
その大阪を快適な土地(農地)にしようと開発したのが仁徳天皇だったのだ。
その後も、高津宮から丹比(現在の羽曳野市)に向かう大道や、
「感玖(こむく)大溝(水路)」を作ったとあり、
それらの大規模な治水、灌漑の土木工事の結果の副産物が、巨大な前方後円墳であったと考える説もある。
コラム56「前方後円墳の謎」
私もこの説が一番説得力を感じる。
戦後には、天皇が奴隷を使って自らの墓を作らせたというようにも言われたが、
「民のかまど」の話とはまったく矛盾する仁徳天皇の姿であるし、
外国からの使者に見せつける権力の象徴だという説も、
見せつけるためであるなら、もっと縦に大きな塔のようなもの
(それこそピラミッドのようなもの)を作った方が効果的であろう。
それは現在も、古墳が観光的な見学には不向きで、
上空から見ないとその姿、形が判別しないことも物語っているのではないか。
また、用途についての説はともかく、少なくとも1600年近く前に作られた、
あのような土木工事の産物である古墳が今も形を残しているのは、
当時の土木工事をレベルの高さを伺え価値がある。
ある意味、大阪の始祖ともいえる仁徳天皇のモミュメントである仁徳天皇陵が、
大阪発の世界遺産となるもの感慨深いのではないだろうか。
参考文献画像元サイト:
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
奈良の本9「よみがえる神武天皇」
地形で読み解く古代史
大仙陵古墳(Wikipedia)