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これは現在の大仏殿の柱の穴くぐりの様子である。
大仏殿の拝観は再開されたものの、新型コロナの感染防止の観点から、
柱の穴くぐりは現在も中止状態
が続いている。
国内外問わず、まるで人気のアトラクションのようにいつも混雑していた場所だけに、
こうして見るとコロナが世界に与えた影響の計り知れなさを感じられずにはいられない。
柱の穴くぐりに活気が戻った時が、我々がコロナの終息を実感できる時であろうか。

たかが、穴くぐりといえど、されど穴くぐり。
しかし、改めてこの柱の穴くぐりに注目してみると実は謎が多い。
東大寺最大の謎と言っても過言ではないかもしれない。
大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴をくぐるだけでしょ?
と思う人もいるかもしれないが、
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実際、大仏の鼻の穴を見てみると、
どうも、柱の穴と形状も違い同じようには見えない。
ちなみに、柱の穴の大きさは縦37cm×横30cmであるが、
成人でもくぐり抜けることはできる。
しかし、毎年8月7日に行われるお身ぬぐい時に、
近くまで人が近づき比較することができるが、
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(引用:奈良大和路~悠~遊~
明らかに人が通れそうな大きさには見えない。
実際の大仏の鼻の穴はもう少し小さいと思われる。
では、なぜ「大仏の鼻の穴と同じ大きさ」という話が流布してしまったということであるが、
これは、古典落語「大仏の目」から来ているようだ。

『奈良の大仏様』の片目がはずれ、腹の中に落っこちた。
人々がパニックになる中、一人の男が「修繕しましょう」と申し出る。
身軽な動きで大仏様に上り、目に開いた穴から中に入ると、腹の中に落ちている目玉を取ってきて眼窩にすぽっ!
「大仏様は直ったけど、あの人は閉じ込められちゃったよ!!」
如何するのかと見ていると、男が鼻の穴からにゅっと出てきた。
利口な人は、『目から鼻へ抜ける』のだとか。
大仏の目・大仏餅(Wikipedia)

もともと「目から鼻へ抜ける(目で見たものをすばやく嗅ぎ分ける、視覚も嗅覚も連動してすぐれた働きをするという意)故事ことわざ辞典という、
慣用句から構想を得たジョークというところであろう。
実際、鋳造の大仏は目だけ独立した作りにはなっていないので
目だけが外れて落ちるということはない
おそらく、柱に空いていた穴とこの落語が混合され、
いつの間にか、穴=鼻の穴、と認識されるようになったと考えられる。

ただ、柱に穴が空いていることは事実である。
鼻の穴ではないとしたら、まさかケツの穴か!?
ということはもちろんなく、これには有力の説がある。
それは、穴が空いている柱の位置に関係している。
柱は北東に位置し、北東とはつまり鬼門である。
日本では古来から中国から入った陰陽五行説の影響で、
鬼門は鬼が来る方角とされ、不吉な方角と考えられた。
この鬼門の考えは、当時の人には死活問題であったようで、
そもそも東大寺が平城京の鬼門を守るために作られただとか、
さらにその建立を祈願して、木津川市の海住山寺が作られたとか、
この手の話には枚挙にいとまがない。
(ちなみに平安京は、比叡山延暦寺がその役割を担う)
つまり、大仏殿の北東の柱だけに穴が空いているのは、
単なる偶然ではなく、鬼門の方角の柱に穴をあけることによって、
邪気を逃がす役割を与えたのではないかというのである。
現在の柱の穴くぐりも、ただ穴をくぐっているのではなく、
無病息災とかご利益を期待しているのは、
この鬼門の風習に起因しているからであろう。

この鬼門の話が事実とすれば、
柱の穴くぐりの起源は結構古い可能性がある。
穴を空けることに意味があるのなら、
柱のどの位置でもよいはずなのに、
いかにも人にくぐってくださいと言わんばかりの位置とサイズは、
茅の輪くぐりのように古くから風習があり、
今に伝わってきたことなのかもしれない。
ちなみに、現在の大仏殿は江戸時代の再建であるが、
1565年(永禄8年)奈良に来訪した宣教師ルイス・デ・アルメイダの日誌に、
「大仏殿の内部の柱に人が通り抜けられるほどの大穴が空いている」
と記述があるそうで(柱のいつ頃から空いているのか?東大寺・御朱印)、
もし、この話が本当だとすると、江戸時代の再建時に受け継いだのだろうか。
江戸時代の再建は、戦国時代の焼失から100年以上の隔たりがあるが、
なにかしらの伝承や資料があったのかもしれない。
もしかしたら、奈良時代の大仏殿の柱にも穴が空いていて、
聖武天皇もくぐったのかもしれない。

参考サイト:
閑題 大仏の鼻の穴の中はどうなっているのか?(タクヤNote)
東大寺の「柱の穴くぐり」を英語で紹介しよう(NARA EIGO)