Magical Mystery Nara Tour

独自の視点で奈良の魅力&情報を発信していきます。

カテゴリ: コラム

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大和郡山市に残っていた遊郭跡が取り壊されるというニュースがあった。
消える遊郭の町家風情 奈良・大和郡山 老朽化進み3月以降4棟取り壊し(毎日)
以前、当ブログでも「ブラ郡山」と題して郡山の街を紹介し、
遊郭跡も熱心にレポートしていたが、今回取り壊されることになるのは、
その場所とは違うようだ。旧川本邸は現在は「町家物語館」として一般公開されているが、
今となればこのような風情を感じられる場所は貴重なので残念である。
リノベーションして旅館にでも出来れば・・なんて素人考えでは思ってしまうが、
相当な老朽化していたことは想像に難しくなく、改修費も半端なくかかることなのであろう。

遊郭といえば、いわば昔の風俗街ということになるのだが、
もちろん、現在奈良には風俗街はない。
しかし、奈良もかつては有数の遊郭地で知られていたことはあまり知られていない。
有数どころか、日本最古の遊郭があったとも云われているほどであるが、
記録上、奈良で一番歴史の古い遊郭として知られるのは、
「木辻(きつじ)遊郭」である。
現在の奈良市東木辻町のあたりにあった遊郭で、
記録上は寛永6年(1629)あたりに設置された公認の遊郭だというが、
あたりは、都が平城京へ移ってきた元興寺の創建時から、
建築工事人たちのために遊女が集められた遊興地があったと言い伝えられるそうで、
その歴史は1300年。日本最古の遊郭と云われている所以である。
ちなみに、遊郭とは、

権力の統制と保護を受け、遊廓として1箇所に集められるのは、近世以降のことである。豊臣秀吉の治世に、遊廓を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にしており許可を得ている。今の大阪の道頓堀川北岸にも遊廓がつくられた。その5年後の天正17年(1589年)には、京都、二条柳町に遊廓が作られた。1589年(天正17)に秀吉によって開かれた京都の柳原遊郭をもって遊郭の始まりとする説もある。
遊郭(Wikipedia)

とあるように、戦乱の時代を経て、治安や風紀の乱れがあったため、
私娼を取り締まり、公娼制度を設け作られたのが遊郭であり、
正式に許可を願い出て認められ作られるものだった。
奈良の木辻遊郭は、大阪、京都、江戸の吉原に続き、
かつて秀吉に仕えていた虎蔵と竹蔵という二人の男が願い出て、
寛永6年(1629)に許可された遊郭であったが、
もともと、上記のように遊興地としての歴史が長かったこともあってか、
明暦3年(1657)に江戸で新吉原を開く頃には、木辻から遊女が派遣されたといい、
その頃にはすでにかなりの繁華をしていたことが伺えるという。
延宝8年(1680)ころに完成した「色道大鏡」(当時の風俗情報誌?w)には、
全国の遊郭25箇所のうちに列挙されており、
江戸後半になると郡山城下にまで支配力が及び、
今回取り壊されることになった郡山の遊郭跡のあたりも、
遊郭として営業するためには木辻遊郭の許可が必要となっていた。
木辻から遊女を貸し出したり、世話料を払わせていた記録があるという(木辻遊郭跡を歩く。

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戦後、そして売春防止法が施行される昭和31年前あたりまで、
木辻遊郭は残っていたというが、今は、その面影を少し残すのみ。
上記の写真は、近くにあるスーパーの「ビッグナラ」の看板だが、
これはかつての遊郭の入口の大門の名残だそうだ。
「ビッグナラ(意味深)」も、遊郭で働く人のための病院だった跡地に建っているという。

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現在も旅館として営業している静観荘(せいかんそう)は、
ズバリ遊郭跡で、内装などはこちらに詳しく紹介されているが、
木辻遊郭跡にある元遊郭旅館「静観荘」を取材した!(世の中は思った以上に面白い!)
今となってはとても貴重な存在だろう。
外国人にも人気で、実際わたしも観光客のお客さんを迎えに行ったことがある。
ぜひとも今後も残してほしいものだ。

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近くには、「けんけん異人館」なるものも。
これも遊郭跡か?(震え声)

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東木辻町界隈といえば、忘れてはならないのは「やすらぎ書店」w
店先に張ってある女性たちの写真は、もちろん遊女ではない(爆)

参考文献:
奈良の昔話〈その4〉「条坊制の町割に綴られた物語」

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東京国立博物館にて開催中の日本書紀成立1300年特別展「出雲と大和」で、
目玉の一つとして展示されているのが、
石上神宮所蔵「七支刀(しちしとう)」である。
石上神宮は、「記紀」に記される伊勢の神宮とならぶ最古の神宮で、
祭神は、「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」
初代・神武天皇が熊野で賊の毒気にやられ壊滅寸前になったとき、
高天原から授けられた起死回生の剣で、その剣の魂(神)を祀っている。
この剣がなければ天皇家の歴史もなかった?と考えると、
まさに神宮として別格で祀られたこともうなづけるであろう。
そして、石上神宮の管理を任されたのが、あの「物部」の一族で、
剣の魂を祀ることから、石上神宮は実際の武器庫としての役割も果たしていったという。
(ちなみに、上記の画像は石上神宮で購入できるネクタイピン)

で、「七支刀」なわけだが、
もしかすると、勘違いしている人もいるかもしれないが、
「七支刀」は、石上神宮の御祭神ではない。
上記のように、石上神宮には神宝として武器類が納められていったと考えられ、
「日本後紀」によると、平安時代の延暦23年(804年)桓武天皇の時代に、
石上神宮に納められていた武器類を山城国に運ぶために、
十五万七千人の人員を必要したと書かれており、
詳細な数はともかく、相当数の武器類があったのは間違いないと考えられる
(ちなみにその後、その計画は祟りなどが起こり頓挫する)。

その神宝の中の一つである「七支刀」は、
日本書紀によると神功皇后52年(四世紀頃?)に、
百済から献上されたもので(七枝刀一口、七子鏡一面、その他重宝とある)、
「七支刀」のなにが凄いかっていうと、現存していることによって、
日本書紀の記述を裏付ける物証となっていることである。
「七支刀」には漢字による銘文が剣身の表裏に61文字が刻まれており、
「百済の王が倭の王に贈った」という内容で読むのが定説とされている。
年号も刻まれており、東晋年号の「太和四年」(西暦369年)と読むこともできるという。

ちなみに「古事記」には、上記のような百済から授けられる話は記されていなく、
そのあたりが「古事記」は政治的な正史というより、
物語を優先したものと言われる所以でもあるわけだが、
実は、応神天皇の時代に「歌」として興味深い記述が残されている。
それは、吉野地方の国栖(くず)の人たちが、
大雀命(のちの仁徳天皇)を讃えるために、
太刀を帯びていた大雀命の姿を歌った歌である。

品陀の日の御子 大雀 大雀
佩かせる太刀 本剣 末ふゆ ふゆきの すからが下樹の さやさや
「古事記」中巻歌謡48


「本剣 末ふゆ」の部分が、特徴ある剣の姿を現していると考えられ(剣先が増える?)、
実際に七支刀が実用的に使われている場面を描いている可能性がある。
ただ実用と言っても、「七支刀」は見た目からしても
殺傷能力のある武器とは考えられないので(叩かれたら痛そうだが)、
おそらく、儀式などに用いられる儀刀としての役割だったのではないかと考えられる。
大雀命も、装飾品として七支刀を身に付けていたのであろうか。
私にはその光景が見えるような気がするw
ロマンを感じられるにはいられない。

関連記事:
コラム93「渡来人の謎」
コラム13「石上神宮はエリア51」

参考文献サイト:

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