Magical Mystery Nara Tour

独自の視点で奈良の魅力&情報を発信していきます。

カテゴリ: コラム

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以前、鹿せんべい売り場の謎についてはコラムで書いたが、
コラム47「鹿せんべい売り場の謎」
今回は、その鹿せんべいそのものの謎について挑んでみたい。
もはや説明するまでもなく、「鹿せんべい」の存在は皆さんもご存じであろうが、
一体いつからあのように奈良公園で販売され、
鹿に与えられているのかについては知る人は少ないであろう。
私は持論では、奈良時代からあったのではないかと思ってはいるがw
資料的にさかのぼれるのでは、江戸時代の1791年に出版された「大和名所図解」の、
茶屋の様子を描いた絵が大きなヒントになると思われる。
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右上の男性が丸いせんべいらしきものを投げて鹿に与えており、
右下でも鹿せんべいらしきものを手に持ち、鹿がそれを咥えている様子が描かれている。
左下では、子供の持っていた紙を鹿がエサと間違えて引っ張っている様子が描かれており、
まさに、現在の奈良公園の光景とまったく同じである。
しかし、実はこの絵図は「鹿せんべい」を描いたものではなく、
春日大社参拝者向けの菓子「火打ち焼き」を食べている人の図というのが正しいようである。
現在も春日大社境内に「春日荷茶屋(かすがにないちゃや)」があるが、
江戸時代の様子がこの絵図だそうで、春日の浄火(神聖な火)で煮炊きした茶を提供することで、
心身を清めて春日大社に参拝することを目的としていたという。
さらに茶屋では、春日大社に捧げる神饌菓子であった「ブト」を模したせんべいが売っており、
現代に残る古代菓子「ぶと」-文化史総合演習 成果報告-
それが、「火打ち焼き」と呼ばれるものだったという。
とはいえ、明らかにそのせんべいらしきものを鹿に与えている様子が描かれており、
その「火打ち焼き」が鹿せんべいの起源になったということなのであろうか。
であるとしたら、ある意味では春日大社の神饌を模したせんべいを神鹿に与える行為は、
神道的にも理にかなって正しいことなのかもしれないw

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現在、「鹿せんべい」は鹿愛護会の登録商標となっており、
せんべいを束ねる紙である証紙を販売することで、売上げを活動費(保護費)に充てているが、
証紙を販売することが決まったのが大正2年(1913)のことで、
その時点で、完全に商品としての「鹿せんべい」というものが存在していたことがわかる。
鹿せんべいを製造する業者は、現在は愛護会が公認する5社のみで、
営業期間中であれば要予約で見学もできる「武田商店」がよく知られている。
鹿せんべいづくりの「武田商店」見学へ-奈良倶楽部通信-
鹿せんべいの原材料は米ぬかと小麦粉のみで、
人間が食べても問題はないが、
衛生管理はされてないので、あまり口にしない方が良いであろう。
証紙も大豆油を利用したインクで印刷されており、そのまま鹿に食べさせても問題はない。
しかし、せんべいを鹿に与えたことがある人であるならわかるであろうが、
せんべいに対する鹿の貪欲さはとんでもないものがあるw
もっと鹿せんべりやりを楽しみたいのに、あまりにも一瞬で終わってしまうので、
物足りなく感じてしまう人も多いであろう。
私は以前から、それは鹿せんべいの形状に問題があると思っており、
解消する方法として、鹿せんべいを
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ハッピーターンのように長細くすれば、
鹿との触れ合いの時間を稼ぐことが出来ると思うが、どうであろうか・・・。
ぜひご検討いただきたいw

参考文献サイト:
宮司が語る御由緒三十話 - 春日大社のすべて
鹿せんべい(Wikipedia)
ハッピーターン(Wikipedia)

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正倉院とは、東大寺にあるいわば倉庫であり、
奈良時代に東大寺のような大寺院には寺の宝物を保管するため、
倉庫(正倉)が立ち並ぶ区域があり、その一帯を正倉「院」と呼んでいた。
しかし、長い歳月の中で多くの正倉は失われ、
現存している東大寺の正倉の一棟が、「正倉院」という固有名詞で呼ばれるようになったのである。
よって、校倉造りの倉庫といえば、東大寺の「正倉院」のことを指すが、
当時、寺の宝物を納めるための倉庫はそれほど珍しいものではなく、
現に、東大寺の三月堂の前にも校倉造りの「法華堂経庫」は現存し、
唐招提寺には、実は正倉院より古い校倉造りの「宝蔵」と「経蔵」が現存している。
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三角形に加工した木材をログハウスのように積み重ねた高床式建物を、
「校倉造り(あぜくらづくり)」と呼ぶが、
このような独特の風貌の高床式建物は世界にも例がなく、
日本で独自に進化、改良されたものと考えられている。
高床式建物自体は世界各地に存在し、それらが日本に伝来した可能性を考えられるが、
高床式建物は、4000年前の縄文遺跡からも発掘されており、
桜町遺跡について(富山県HP)
富山県桜町遺跡でみつかった部材と復元高床建物(群馬県埋蔵文化財調査事業団)
一般的に言われる、弥生時代の稲作伝来や飛鳥時代の仏教伝来時より、
はるか昔から日本ではこのような高床式建築がつくられていたのは間違いない。
よって、東大寺が作られる奈良時代には、
すでに成熟した高床式建築技術が確立されていており、
日本の気候に適した独自の「正倉院」のような校倉造りが作られたのであろうか。
ちなみに、昔からよく言われている、木材が湿気によって伸縮し、
内部の湿度が適度に保たれていた
という説は現在では否定されており、
むしろ、宝物を入れていたスギの唐櫃(からびつ)が、
虫食いや急激な湿度の変化による劣化を抑えていた大きな要因と考えられている。
近年では、このスギなどの木材繊維が汚染物質を分解することが判明しており、
阪奈トンネルの排ガス浄化に役立っているということは、
以前、当ブログでもご紹介した。
奈良のトンネル9「阪奈トンネル」

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正倉院の宝物は、756年聖武天皇の四十九日法要の際、
光明皇后が聖武天皇を想い、その愛用品や国家に献上された宝物を
廬舎那仏(大仏)にお供えとして捧げたことが始まりで、
その後、東大寺に関係する仏具や古文書なども保存されていき、
時代とともに失われたものも多いが、現在、9000点もの宝物が伝えられている。
宝物は残されるべくして残されてきたものであって、このような古代の遺物が発掘されるのではなく、
1300年に渡り保存保管されていたということが世界にも例を見ない。
現在、宝物は1963年に新しく建てられた西宝庫で保管され、
毎年、天皇の使いがやってきて開封し、点検チェックされており、
(宝庫は奈良時代から天皇の命令による「勅封」がされており、
現在も伝統が受け継がれ「開封の儀」「閉封の儀」が行われる)
毎年多くの人が訪れる「正倉院展」は、約二週間ほどの短い期間であるが、
それは点検が目的なのであり、展示のために宝物が出されているわけではないからである。
(現在も、あくまで宝物は天皇家の所有物(私物)という扱いになっている)

正倉院の宝物が、一般人に公開されるようになっていくきっかけは、
天保2年(1831)、奈良奉行に就任した梶野良材(かじのよしき)が、
正倉院の宝物の開封点検、修理を指示し監督したあたりからとされ、
明治8年(1875)に、社寺の所蔵する文化財を展示する博覧会が奈良で行われることになり
東大寺大仏殿と回廊に宝物が展示されたのが、
初めての一般人への正式な公開であった。
現在の「正倉院展」に直接つながるのは戦後で、
第二次世界大戦中、宝物を奈良帝室博物館(現・奈良国立博物館)に避難させていたものを、
「正倉院特別展観」として昭和21年(1946)に公開されたのが、実質の「第1回正倉院展」となった。
それは、宝物を一般公開させることによって敗戦後の日本人を元気づけ、
日本文化の素晴らしさを再認識してもらおうと声があがり実現したものであった。
まさに、日本の歴史が脈々と続いてきたことを感じられるのが正倉院の宝物なのだ。

参考文献サイト:
カラーでわかるガイドブック 知ってる? 正倉院: 今なおかがやく宝物たち
正倉院(Wikipedia)
梶野良材(Wikipedia)
校倉造り(コトバンク)
正倉院の楽器(Moto Saitoh's Home Page)
第69回正倉院展(奈良国立博物館)

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